「紅華楼夢想奇譚・四」




乱闘ありとの知らせを受けて華街へ駆けつけた町役人を足止めするかのように、その落雷

は突然で。

大門の手前にかかる橋の、脇にそよぐ柳の木が一本焼け落ちた。

生木を裂いた雷の威力に腰を抜かしていた町役人がようやく大門をくぐった頃には周辺の

妓楼の気転もあって、華街はもういつもの顔に戻っていて、京や庵、雄呂地衆の姿はおろ

か、乱闘の痕跡もなかった。









さて。

表通りの騒ぎもひとまず収まり、華街の数ある妓楼の中でも人気の高い紅華楼の一室では、

長火鉢を挟んで楼主の紅丸と京が向かい合うように座していた。

悪党・乱暴者が揃う雄呂地衆を相手に暴れるだけ暴れ、突然昏倒した男・八神庵をテリー

の力を借りて二階の空き部屋に運んで間もなく、京は出掛け先から戻って来た楼主の紅丸

に呼び付けられ、お叱りを受けているところだった。

京が雄呂地衆と一悶着起こしたことを、紅丸に報告した者がいたせいだ。

「事情はわかった。…にしても、まぁったく! あれほど雄呂地衆と係わるなって言っと

いたのに、おまえときたら…。見たところ大丈夫そうだが、肌に傷なんてつけられちゃい

ないだろうな?」

「ああ。奴(やっこ)さんのおかげもあって、かすり傷ひとつないぜ」

「そりゃ幸い。…で? その男を二階にあげたようだけど、どういうつもりかねぇ?」

「どういうつもりって…。人としてあのまんまにはしとけないだろ? 外はひと荒れきそ

うな雲行きだし。それになんつったっておれの、命の恩人なんだぜ? ここで介抱するの

が筋ってもんだ」

「そりゃまぁ、な。…しかしだな〜京、おまえには…」 

紅丸が言わんとすることを察して京は強引にその先の言葉を遮り、腰を浮かした。

「わかってる。それはそれとして…。なぁ、いいよな? おれの恩人なんだぜ? 面倒な

ら、おれがちゃんと見るしさ」

「面倒みるって、おまえ……犬や猫じゃないんだぞ」

「紅丸」

「おいおい…」

いつになく真剣な眼差しをした京ににじり寄られ、力強い意志の光を湛えたその黒瞳にじっ

と見つめられること数十秒、いまひとつ難色を示し続けていた紅丸ももついに折れた。

にわかに京の顔が満面の笑みになる。

(ま、いっか…)

また娼妓の舞や友人で近くの妓楼の楼主・セスあたりにはまた「おまえは京に甘すぎる」

と言われてしまうだろうが、紅丸にとっては売れっ子華娼の艶然たる笑みより、京の屈託

ない笑みのほうが勝るのであって…。

とにかく周りになんと言われようと、最近とみに浮かぬをしていることが多かった京を見

ていただけに、内心ほっとするのだった。

「よし、いいだろう。とりあえず目ェ覚まして動けるまで面倒みてやれ」

数日のことだろうと踏んで、紅丸は京の言い分を聞き入れた。

「さすが華街きっての名楼主! 話がわかるねぇ」

「けっ…。こういう時だけ誉められてもなー」

にこにこ顔になった京にそう呼ばわれ、紅丸が苦笑した。が、すぐに

「まぁとにかく、あちらさんに一応話はつけておいてやるから、それまでしばらく表に出

るんじゃないぞ。それと旦那が来たらちゃんと部屋に戻っとけよ。おまえは今、蒼の旦那

に買い上げられてる身だってことを忘れるな。いいな? 京」

煙管を片手に長火鉢に両肘をついたまま、楼主たる口調で言いつける。

「…わかってるよ。…ちぇっ。やっぱりそうなんのか。つまんねーの」

その前では京が口を尖らせて不満の声をだしたが、とりあえずこの場は了承するしかない



と頷いて、楼主の部屋を後にした。




     




京が二階の自分の部屋へ入ると、寝具に横たえられてから微動だにしない庵の傍らに膝を

つき、飽くことなくその顔を覗き込んでいた禿のクーラが気づいて振り向いた。

今年の冬になれば、齢十四を迎える可憐な容貌の小娘だ。

「ねぇねぇ、京、この人まだ目を覚まさないよー? ほっぺた叩いてみようか」

腰まで伸びる青みがかった長い髪が、男の顔にかからぬように耳の後ろにかけなおしなが

らそう言って、クーラはもう一度、横たわる庵の顔を覗き込む。

京はあどけないクーラの口調に思わず表情を緩めた。

「ん? んー。それでも息はしてるんだからさ。テリーの話じゃかなり疲れてる身らしい

し、今は寝るだけ寝かせてやんな」

「はーい。それにしてもこの人、すごく強かったよねぇ。クーラも途中から見てたよ」

「そうだな」

京は顔色の冴えない男の顔を、クーラと肩を並べて覗き込んでみた。

まだ目覚めそうにないが、ここへ運び込んだ時に浮かんでいた苦悶の表情は消えていた。

この様子なら医者を呼ぶ必要はないだろう。

「クーラ、看ててくれてありがとな。あとはおれが看てるからダイアナのところに行って

きな。麒麟堂のべっこう飴を買ってきたって、おまえを探してるってさ。あそこのべっこ

う飴がいちばん好きなんだろ?」 

「うん! 麒麟堂のべっこう飴がいちばん美味しいの。じゃぁ、京とその人の分もとっと

くからね!」

立ち上がり、喜々として部屋を出て行くクーラの背を肩越しに見送った後、京は眠る庵に

視線を戻して、しばらくじっとその顔の造作を眺めていた。が、室内のあまりの静けさに

眠気を誘われたか、小さく息を吐いて目を閉じた。すると、ぼんやりと先刻の光景が脳裏

に浮かんでくる。

―アテナ、拳崇、この隙に逃げちまえ。今ならあいつら、あっちのことに頭一杯手一杯だ

―で、でも! それじゃ京さんに迷惑がかかります。それにあの人だって…

―おれのことは勿論、あの男にはおれから詫びいれとくから心配すんなって

―京さん

―いいか! この機会を逃したら次はないかもしんねぇ。だから今、腹を決めろ!

―…………

―おまえらの特別な力、こういう時こそ思う存分使えって。ぜってぇに奴等から逃げ切れ!

―京さん…。はいっ、必ず!

―京はんッ、おおきに!

―よし、決まりだな。これ、ちょっとしかねぇけど使いな。おれからの餞別だ

―お金まで…。ほんとに、ほんとにありがとう。京さん、どうもありがとう!

―前に話した養生所のキム先生を頼れ。あのおっさんなら、きっと助けてくれる。

こうしてアテナと拳崇は華街から逃げた。

短いやり取り。別れを惜しむ間はなかった。

もし連れ戻されるようなことがあれば、死んだほうがましだと思うような仕打ちが待って

いるだろう。

雄呂地衆を使っているような見世なら尚更に。

「…………」

…愚かだったろうか? 暗い気持ちが一瞬胸を突いた。

無事に逃げおおせることを祈ってると口早に告げて、二人の肩を押したものの、だ。

このあと、戦列から離れた雄呂地衆の一人が匕首を振り上げて駆け寄ってくるのに気づい

た。

目を血走らせて奇声を放つ男の顔には見覚えがある。

竜二という、雄呂地衆の中でも「狂犬」と言われ疎ましがられている男だった。

そんな男から向けられた匕首の閃きと殺気。

躱しきれない。刺されると思った。 けれど、その凶刃から自分を庇った者がいて。

それがこの男。八神庵。 まさに電光石火の早業というやつだった。

あの時の横顔がまだ瞼に残っている。そして左手に揺れ動いていた蒼紫の焔も。

(あれは…どうなってるんだ?……こいつは、人間なのか?)

思い浮かべるとなにかが、身の内でざわめく。

(なんだろう? この気持ち。なんでだろう?)

「…………」

不可解な思いに囚われたまま、庵の額にかかる赤い髪に触れようとしたその時―。

華街の上空にふたたび雷鳴が轟き、屋根を打ちだした激しい雨音に、京はふと視線を上げ

た。

「やっぱり降ってきたな…。間に合ってよかったよ」

一人そう呟いて、また庵に視線を戻す。が、雷鳴や雨音で目覚める程度の眠りではないら

しく、その寝顔に変化はない。

京はつまらなさそうにあくびをひとつすると、肩肘枕でゴロリとそんな男の傍らに横になっ

た。

興味深げに自分を覗き込んでいる京のことなど、昏々と眠る庵が知るはずもなく。

やがて、行燈の油が切れて闇に包まれた部屋の中には、かすかに、穏やかな寝息がもうひ

とつ加わった。



いつしか眠りの淵に佇んだ二人は、見知らぬ花の香に絡めとられていた。


一度は断ち切られた縁(えにし)が、ふたたび結びあおうととしていることは、まだ誰に気

づかれることもなく――。





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