「紅華楼夢想奇譚・参」




不本意ながら訪れることになった華街で、早々に面倒な目に合ったのも運命とやらの導き

だというのか。

小競り合いに発展しようとする場面に割って入ってきたのは、一目で華街の住人と分かる

身形(みなり)の男だった。

「華街はこれからが書き入れ時ってとこなのに、こんなところで喧嘩沙汰起こされちゃぁ、

どの見世も大迷惑なんだよ」

剣呑な雰囲気の中に突如漂う花の香り。

男達の中で囁き交わされる声が聞こえた。

「あれは紅華楼の京だ」と。

「…きょう、か」

久しく声にだすことのなかった名を耳にして、庵はふとつられるように口にした。

その響きは切なく、それでいて懐かしい。

男と目が合った。状況を無視してまっすぐにじっと自分だけを見つめてくる黒瞳。

反らすことなく見返すと、微笑して自分へ向かって進み出てきた。

「おい! 男娼風情がしゃしゃりでてくるんじゃねぇ」

「さっさと見世に戻ってな」

臆する様子もなく瓢々と自分達の間を通り過ぎようとする京に、雄呂地衆でも三下の男達

がすごんで見せるが

「そうはいくかい。そいつぁ、うちンところのお客さんなんでね」

と、まったく動じない。そうして庵に詰め寄っていた大男には一瞥をくれただけで、佇む

庵の腕を引いて、有無を言わさずその場から退こうとする。

「あんた、紅華楼へ来たんだろ? いつまで道草くってんだ。早く来いってば」

「そのつもりだったが、もういい」

もとより気のすすまぬところにこの面倒事。帰りたくなるのも無理はない。だが、どうい

うわけだか京という男は「それは困る」と小声で言うではないか。

さらには

(鍛冶屋の手理の知り合いだろ。手理がこいつらと事を構えるのは避けさせたいんでね。

おれが代わりに来てやったの。素直についてこいよ)

そう耳打ちされた。

「……………」

 一方、思わぬ横やりを入れられた大男は知らぬでない京の様子を黙って見ていたが、そ

の足元を見て口の片はしを歪ませた。

「へぇ、自らお出迎えとはなぁ。京、その男が気に入ったのか?」

「あんた等よりは強そうだしな」

庵の胸元に手を置いて、しなだれかかる京の表情には、大男の劣情を誘うような色香が浮

かぶ。

「………」

それを目にした大男は罠だ、と頭のどこかでわかっていても、隠し持っていた嫉妬を煽ら

れてしまう。

赤い髪の男から今すぐにでも引き離して、京を自分のものにしてやりたいという衝動が体

を駆け巡る。が、大男はそれをグッと呑み込み、かわりに言葉で京を嬲ろうとした。

「ははぁ、言ってくれる。それにしたって京、金鎖をつけられときながらまた新しい男を

銜え込む気か。足りないんなら俺がおまえの…」

それが言い終わらぬうちに、大男の股間には、京の振り向きざまの強烈な足蹴りが入った。

「ぐぉッ…ッ、ああッ!」

不意をつかれ、苦悶の声を洩らしてその場に蹲ると、そこへ手下達が慌てて駆け寄ってい

く。

「社の兄貴!」

「兄貴ぃっ! しっかりしてください!」

「て、てめぇっ、よくもやりやがったな!」

「あっちゃぁ〜、わりぃ。雄呂地衆には目をつけられんな・手ぇだすなって言われてたけ

ど、かわりに足がでちまった。我慢はお肌によくないって、姐さん達が言ってたしなぁ」

「…………」

チラリと庵が京を見る。

(さっき垣間見せた艶気はどこへやら…)

ぺろっと舌をだした京の様子に反省の色はなく、庵は失笑した。

「どうするんだ?」

「どうするもなにも…。もう何事もなく見世に帰るのは無理みたいなんで」

「だから?」

これからの展開は想像できたが庵は一応聞いてみる。案の定、

「あんたの腕っぷし拝見といくわ」

雄呂地衆と呼ばれた男達のほうへくるりと体を向けられ、ぽんと肩を押されるように叩か

れた。

「暴力は嫌いなんだがな」

「そうなのか? でも連中のしてくれたら良いことあるぜ?」

「どんなことだ?」

「今言ってるひまねーだろが。あとの楽しみにとっとけよ。で、あんたの名前は? おれ

は京ってんだ」

「八神、庵だ」

「八神…庵…、ね。でさ、あっちの数増えてるけど大丈夫だよな?」

「無論だ」

そうこう言っているうちに同じ半纏を着込んだコワモテの男達が二人を取り囲んだ。

そしてそのうちの一人が庵の背後に立つ京へと腕を伸ばし、胸襟を掴んで殴りかかろうと

した。

だがそれを、庵が無表情に薙ぎ払う。

無造作な動きだったにもかかわらず、男の腕には裂傷ができて血を滲ませていた。

「荒っぽい生業をしているわりにはやわな肌だ」

「っ…。いてぇっ! こいつなにか刃物をもってやがるぞ!」

男の腕の傷と喚き声に、皆が庵の手先に目をやるが、何もそれらしきものは持っていない。

ただ指先が鉤爪のような形をとっていただけだった。

庵は無言で、男達の次の出方を待っている。

「どうした。これで終いか?」

間合いは詰めてくるものの、妙な手技を使う男だと警戒してか二番手がなかなかでてこな

い。

「まったくよぉ…。そのすかした面、気に入らねぇ」

と、そこへ再びどことなく苦みばしった声がして、

男達を掻き分けながらゆっくりとした動きでさっきの大男が姿を見せた。

名を七枷社という。

その顔が時々歪み、かすかに油汗が滲んでいるところを見ると、まだ京から受けた股間の

蹴りが効いているらしいのだが。

「ふたり揃ってなめた真似をしてくれるじゃねぇか」

拳をパキリと鳴らしながら七枷は己の中の闘志を膨らませていく。

庵もまた七枷の本気を受けて、静かに気を高めていく。

「おい、離れていろ」

「あ、ああ。……?!」

言われるまま庵の背後から離れた京だが、その刹那、目にしたものをもう一度よく見よう

と立ち止まり、目をしばたたかせた。

庵の左の手先から立ち昇るようにゆらりと、紫がかったものが揺らめいた気がしたのだ。

しかし、今は余計なことに思いを巡らしている場合ではないと思い直す。

わざわざ七枷を煽るような素振りをみせたのも、これが絶好の機会と思ったが為。

雄呂地衆の目が庵に向いている間に、

それ以外の者達もこの騒ぎに気を引かれている間にしてやることがあった。

雄呂地衆に買われてからというもの、長い間ひどい扱いを受けていた少年と少女、

あのアテナと拳崇を、この機に乗じて華街から逃がしてやるのだ。

後方では怒号を合図に乱闘が始まった。なんとしても庵を叩き伏せようと皆躍起になって

いる。

知らせを受けて駆けつけてきた仲間もあって、すでに二十人以上に膨れ上がった荒くれ者

共を相手にさせようなど、なんの関係もない八神庵という男には、多少悪い気もしたが…。

(でもあいつ、あんな連中如きにやられちまうようなタマじゃないと思うんだよなぁ)

乱闘現場をまんまと抜け出て、あ然として成り行きを見守っているアテナと拳崇に近づい

ていく京の表情は、なんだか楽しげなのであった。







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