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「………ン…」
無意識に身じろいだ拍子に下腹がジンと痺れる。そのショックで、京は目を
覚ました。
すぐ間近に庵の顔がある。少し寝乱れた髪が目にかかっているのを、そっと撫で上げ
るように直してやりながら庵の様子を窺っていたが、どうやら庵の
意識は夢の中にあるらしい。
求めた以上に身に注がれた熱情も、今こうして肩と腰に回されている腕の力強さも
何もかもが京を幸せな気分に、そして少しだけ切なくさせた。
空は群青色へと変化している。けれど夜明けにはまだ少し早いようで、窓の
外には
白く輝く月が浮かんでいた。
京は、庵が寝入っているのをいいことに顔の造作をまじまじと観察していたが、やがて
(まだ目を覚まさないでくれよな)
そう心内で願うと、庵を起こさないように少しずつ体に回された腕を外していった。
途中、庵が小さく呻いて眉を寄せたが目覚めるまでには至らずにホッと胸を撫でおろす。
そうして慎重に腕の中から抜け出した京は、横たわる庵を見下ろすようにその両側に
手をつくと、想いを込めてそのこめかみに口づけた。
(オレは大丈夫。1秒でも永く、そばにいる)
目を閉じてなにかを呼び寄せるように深い呼吸を繰り返す京の背中に、淡い
燐光が立ち
昇ったかと思うと純白の翼が現れ、いったん大きくはばたく。
京は人ならざる<気>を全身に漲らせて庵に寄り添い、庵の体を羽で包み込んでいった。
一方庵は、夢の中でいつも意識が溯って戻るあのささくれだった大地に、膝を折って
黙祷を捧げていた。
夢の中までも苛んできた慟哭はもはやなく、ただ静かに。
そんな庵の髪や肌を撫でるように、温かみを含んだ優しい風が吹いてくる。
『………?!』
不可思議な風は心地よく感じられて、それに引かれるように顔を上げた庵は驚いて立ち上がった。
荒涼たるかの果てにいたはずなのに、視界は突然白く塗り変っていて…。
あたり一面乳白色の世界。
一体何が起こったのか?
歩きだそうにも目標が定まらない。歩き出したとて、果たして進んでいるのかさえ
分からないだろう。どうしようもなく庵はその場に立ち尽くしてしまった。
突然の変化に言葉を失いつつも、不安も苛立ちも感じないのは、自分を取り巻く温かな
<気>のせいと『いずれは 醒める夢』だという思いがあって
のことだった。
いくら彼方へと目を凝らしても浮かび上がるものはなにもなかった。とはいえ、
このまま動かずにいるよりも、動くことで何か変化をもたらすほうが自分らしいと
結論をだした庵が、一歩を踏み出そうとしてピタリと動きを止めた。
自分の前に突如、白いローブを着た裸足の子供が立っているではないか。
『おまえ……、どこから?』
黒く輝きのある瞳が物怖じすることなくまっすぐに見上げてくる。
『もう淋しくないよね?』
庵の問いには答えず、クセのない黒髪を肩まで伸ばした子供はただそう言って
ニッコリと
庵に笑いかけた。その面差しが京に重なって、庵は思わず心に
浮かんだその名を口にした。
『おまえは京、なのか?』
身をかがめ視線を合わせて尋ねると、答えるかわりに子供ははにかむような笑顔を湛えて、
庵の首に両腕を回してギュッと抱きついた。
『………!』
『もうすぐボクが迎えに来るよ』
『…?俺をか?』
小さな体を腕の中に抱きかかえたまま姿勢を伸ばした庵が尋ねると、子供姿の京が力強く頷いた。
『大きくなったボクなら疵を癒せられる』
『……』
『その前に自分自身を許してあげて。もう許されていいんだ』
傷ツイタカノ神ニ清ラカナル癒シノ施シヲ――
目を伏せた子供の口から紡がれる祈りの言葉が、聞き馴染んだ今の京の声に変っていく。
途端、腕の中の子供は透き通るように徐々に形を失っていき消えてしまった。
『なにがどうなって…』
困惑する庵を、今度は何者かが後ろからやんわりと抱き締める。それはもう子供の手ではなく。
『オレが癒してやる』
『京?』
庵が背後を振り返ろうとしたと同時に白い世界が輝きはじめ、そして羽音が耳を掠めた
かと思った瞬間、純白の羽が庵を包み込んだ。
温かく柔らかく、庵の意識さえも―。
朝の光が射し込むベッドの上、シーツに投げ出されていた庵の指がピクリと動いた。
ベッドヘッドには庵の黒シャツが無造作に掛けられている。
「……京」
夢うつつの中で自分を呼ぶ庵の背に肌を合わせて、京は引きつれた疵口に唇を這わしていた。
はじめこそその背に受けた痛々しい傷痕に顔を曇らせた京だが、あれからずっと、
全身全霊をもって庵が一身に受けた呪詛に癒しの<気>を送り続けていたのだ。
「いおり…」
<気>を吹き込み続けて消耗しきった京が庵に折り重なるようなカタチで息をついていると
庵がようやく目を開けた。
「…………」
「おはよう、庵。気分は?」
「…………??」
うつ伏せた自分の上から京の声。しかも布越しではなくじかに肌に感じる温もりによって
一気に覚醒した庵の目の前には、ベッドヘッドに掛けられた黒シャツが映る。
不覚にもぐっすりと眠ってしまったことを激しく後悔しながら、庵は京がなにをしたかを悟った。
「京ッ!」
気遣いをフイにされ、庵が咎めるような声を出すが当人はまったく意に介していないようで。
「庵。オレね、もう少しこのままがいい」
京が甘えるように背に頬を押し付けたままうっとりと呟く。
「そんなワケにいくか! このバカ者……ッ!」
いささか動揺気味に京を仰ぎ見た庵が、その肩からのぞく白い翼を目にしてピタリと静止した。
「翼……」
「ん? ああ、そうそう。この姿のほうがより強い癒しの力を振るうことができるからさ」
あっけらかんと笑って見せる京に怒る気も失せたのか、庵は体の力を抜いた。
「……ああ、確かに…夢の中にまで感じた。柔らかくて暖かくて、心地いい」
「よかった。俺が天使として庵にしてやれることはこれで果たせた…かな」
「京…俺は」
すると、じっと見入っていた庵の顔をちゃかすように京が覗き込む。
「翼はじきに消えちまうけど。俺の思いは叶ったからいいんだ」
「禁忌を犯した報いか?」
「ストップ! そんな痛そうな顔しない。禁忌なんてもうどーでもいいの! 俺は庵が好きだよ。
だから庵の体にかかった呪詛を取り払って一緒にいたかった。禁忌なんて恐れやしない。庵は?」
「今更それを言わせるのか?」
「聞きたい」
「…くそくらえ、だな」
ようやく庵は口元に苦笑ながらも笑みを浮かべた。そしてまだ背中から退こうとしない京の
白い翼に腕を伸ばして口元に引き寄せると軽く犬歯をたてて甘噛みし、そっと離してやった。
「ところで。そろそろ顔をよく見せてくれないか?」
「まだイヤだ」
「そう言うなよ。本音を言うとまだ抱き足りん」
「………」
背中にしがみつく京の鼓動が早まるのを肌越しに感じて庵はひっそりと笑った。
そして京をしがみつかせたまま上半身を起すと首に回されていた腕を解かせて、有翼体に
なったままの京に向き直る。
「綺麗だな」
しばし見惚れていると艶やかな純白の翼は朝の光の中で儚く透けるように消えた。
夢の中に現れた幼い京のように。
「あ、あんまりじっと見んなって」
それでもまだ見つめるのをやめようとしない庵の眼差し。それにテレて、顔を紅く染めた
京がシーツを手繰り寄せようとすると、庵はその手を掴まえてそのまま腕の中に抱き込んだ。
黒髪に差し入れていた手を引いて頬にかけると顔を上げさせる。
「あ」
薄く開いた唇に啄ばむような口づけを何度か落とすと、まだどこかぎこちないが京からも
深い口づけに応えようと求めてくる。初心(うぶ)な反応を楽しみながらも庵は京の体力
の消耗を思いやって、名残惜しげに唇を離した。
「ど…した、庵?」
「俺に癒しの力がないのが残念だ」
そう呟いて額や首筋に慈しむようなキスをくれる庵に京はくすぐったそうに身を竦めながらも微笑んでみせた。
「オレを思ってくれてるって感じるだけで力が湧いてくるんだよ。へーき…」
うれしそうに目を閉じた京が庵の胸に頭を凭せ掛けると、庵は京を抱き締めたまま
横たわり、 肩肘をたてて京を見下ろして言った。
「とりあえず眠れ」
「もう抱かねーの?」
上目遣いにチラッと見上げる京にニヤリと笑ってみせる。
「これからいくらでもその機会はあるからな」
「なんか幸せで泣けてくる」
「泣かないうちに、もうひと眠りしてしまえ」
庵がそっと京の目に手を当てたまま寄り添っていると、ほどなくして京はおとなしく
そのまま健やかな寝息をたてはじめた。
はねっかえりですが極上の天使でしてね。悪魔といえどあのコに会ったら恋をするような…。
京の寝顔を見下ろしていた庵はふと、以前牧師が言った言葉を思い出す。
(まったくその通りだ)
癒されることを望まず、ただ亡ぼした者たちの恐怖と悲しみを纏って―。
誰とも交わらず、何かに心動かされることもなく大地を流離(さすら)ってゆくのだと思っていた。
ところがそんな空虚な時間を漂っていた自分が、京に出会って変わった。
遥か過去のこととはいえ、天使殺し≠フ咎を背負った身ではもはや相容れぬ存在で
あっただろうに、癒しの天使は屈託なく手を差し伸べてきた。
あまつさえ自分に恋≠オたと言いながら。
あれから――。
穏やかに笑ったり、時に苛立ったり、臆病になったり、愛しくて抱き締めたくなったり…。
生きていく上で当然の「感情」が、自分の中に生まれて庵の世界は息を吹き返したのだ。
眠る京の肩までブランケットを引き上げてやると、庵は黒シャツに袖を通しながらベッドを下りた。
そのままサイドボードの上に置いておいたタバコとジッポを片手にベランダに出ると朝の冷えた空気に身を晒してみる。
咥えたタバコに火を付け、すでに一日の始まりを見せている眼下の街を手すりに肩肘を
ついて眺めながら、庵は己の肉体を蝕んでいた呪詛による疵の痛みが少しずつ、
だが確実に癒されていくのを感じていた。
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