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心地よいかすかなざわめき。祈りの声。空気。
天窓からいくつもの淡い光の筋が差し込む聖堂内はいつにも増して神聖な気持ちを抱かせる
のか、大人達に伴われてやってくる幼い子らも静かに周りの者に倣って祈りを捧げていく。
そんな穏やかな光景を、整列した長い木製の椅子の後方に腰掛けて眺めていた京だったが、
皆が出て行き一人になるとおもむろにダッフルコートの両ポケットに手を突っ込み、
ズルズルと背凭れに上半身を預けて目を閉じた。
「ふぃー………っ」
思わずため息がもれた。
昨日の夜から朝にかけての出来事を頭の中で反芻してみる。
庵の身の内に突如湧き起こった嵐にまかせて彼を受け入れようと体を開いたのは昨夜のこと。そして朝。
気がついた時には隣にも部屋のどこにも庵の姿はなく―。
「ちぇッ…このオレサマがいいって言ってんのに……」
彼の熱に繋がれることを望んだけれどそれは叶えられなかった。
でも、たしかに抱き合った熱はまだ体に残っていて。
鏡の前に肌を晒せばそこかしこに淡く色づいた花が咲いている。
「アイツ…ヒスは起こしてもキスうますぎ………」
目を閉じたままくくくっと京が笑う。
「嬉しそうですねぇ」
「!!」
「やっと帰って来てくれたね。京」
降ってわいたような声に咄嗟に立ち上がろうとした京の両肩をやんわりと掴んで押さえつける手。
「ゲーニッツ」
振り仰ぐ京の目の前にいたのはゲーニッツ牧師だった。
ここに来れば会わずにはすまない人物ではあったが、いざ会ってしまうと準備してきた
言葉がでてこなくて京はちょっと困ったように力ない笑みを浮かべた。ゲーニッツ牧師は
そんな京の心を知ってか知らずか、隣に来て座るとその肩を抱き寄せ自分に凭せ掛ける。
静かな面持ちのゲーニッツ牧師に京も真顔になって素直に頭をのせた。
「顔色がさえないな?」
気遣うゲーニッツに京がしばしの沈黙のあとポツリと言う。
「オレね…とりあえず懺悔しにきただけ。もうここへは帰らねー」
「…八神庵とのことですか?まだ引き返せますよ」
「…もしかしなくても…お見通し?」
―八神庵と肌を合わせようとしたこと。
「はい」
「…そっか」
京はなんとなく首筋のキスマークに手を当てた。
「でも懺悔したいのは八神としようとした行為のことじゃない。オレのこと」
ゲーニッツの肩に頭をおいたまま京が首を振る。
「はい?」
お互い視線は祭壇を見つめたままで言葉は交わされていく。
「オレは万人を平等に愛し祝福を与えるべき存在に生まれながら八神庵だけを
愛して、しかも欲情した天使失格者です。でも後悔はしてないぞー、…ってね」
臆面もない京の告白を聞いてゲーニッツ牧師は言うべき言葉を失う。
「それは懺悔というよりも宣言というか…あ、いや…そうですか。もう止めても無駄ということなんだね」
「そう」
「しかし姦淫はおろか<天使殺し>の咎を受けている彼にその身を与え…、コ
ホン、彼を癒せば、君は…八神庵と想いが通じ合ったとしても…」
最後の言葉を遮るように京は立ち上がり
「おっと、長居しすぎちゃったよ。…さーて、オレの天使としての最後の大仕事って
ヤツをするまえに庵を捕まえないと。じゃぁゲーニッツ、その…、今までありがとう」
感謝の言葉と共にゲーニッツ牧師の体をしばし抱き締めた後、踵を返し、背筋をピンと
伸ばして出口に向かって歩き出した。
「京、もうしばらくここで休んでいなさい。長く聖域を離れていた上に、八神
が受けている呪詛に少なからず当てられていて辛いでしょう」
「大丈夫。庵のそばに行きたいんだ」
そう言って、小さな軋みをたてゆっくりと閉まってゆく扉の向こうで京はゲーニッツ牧師
に柔らかな笑みを見せた。
「京!」
ゲーニッツ牧師が後を追うように外に出るがすでに京の姿はなく、ただそこに、
彼が立っていたはずの場所に白い羽根が一枚フワリと揺れているだけだった。
自然の光は消え、夜空を焦がさんばかりの人工の光と人々の嬌声に溢れかえる街。
表通りの賑わいを左に外れて坂を上がって行く途中にそのライブハウスはあった。
壁や床に低く振動するリズムと熱気に包まれたステージをよそに、庵はそこから
反対側の壁際に作られたミニ・バーのスツールに腰掛けて、グラスに琥珀色の液
体を満たしては水のように喉に流し込んでいた。
カラになったグラスに酒を注ごうとボトルに手を伸ばした庵の目に、カウンター
の端に
置かれたミニサイズのクリスマスツリーが映る。過剰なまでに金銀のモー
ルや電飾が
巻かれているその天辺には、胸に星を抱いた天使のオーナメントが立っていた。
目を閉じ てうっすらと口元に笑みを浮かべる天使はどことなく京を思わせて。
「………」
目を覚ました京は一体なにを思っただろうか―――。
半ば気を失うように眠った京を見つめているうちに我に返ったものの、庵は八つ
当たりの
ように彼を傷つけ抱こうとした自分に嫌悪を感じた。そんな荒んだ部分
さえも受け入れ
ようと抱きとめてくれた京の腕が、口づけが優しかった分尚更だ。
だから逃げ出すように
部屋を出て、フラリと立ち寄ったこの店で時間を持て余している。
ここは数年前流れ着いたこの街で何気に入ったライブハウスだったのだが、その
時余興まで
にギターを弾いてみせたら思いのほかオーナーに気に入られて、以来
長いつきあいになっている場所だ。
「……ッ…!」
責めるように背中を走った疼痛が、もの思いに沈む庵を現実に引き戻す。と、
「おう、八神!今夜は出るって聞いてなかったぜ。飛び入りか?」
ハリのある声と共に大きな体躯をした男が脇に立ち、カウンターに肩肘をつきな
がら庵に
話し掛けてきた。七枷という、自分になにかと絡んできては敵意と馴れ
馴れしいまでの
親しみを入り交えて接してくる一風変った男である。
「……いや。飲みに来ただけだ。邪魔するな」
さも鬱陶しそうに一瞥する庵に対してわざとらしく七枷が肩をすくめてみせた。
「ふ〜ん。ヒドい男だよなぁ〜〜。こんなハッピークリスマスにエンジェルちゃん一人
残して飲んだくれてるなんてよ。なぁ、エンジェルちゃん…え〜っとキョウ、だったっけ?」
(京だと…ッ?!?!)
"京"という名に背後を振り返ると、視線の先に京が立っていた。
「京……」
ポーカーフェイスが常なこの男が珍しく驚いたように目を見張ったのを、京は少
し怒った
ような顔をして睨んでみせたが、でもすぐに相好を崩す。ホッとしたように。
「庵、探したぞ。こら」
「……」
フイ、と背中を向けてしまう庵に七枷が眉をひそめる。
「おいおい。愛想なさすぎだぜ、八神。店の前でウロウロしてたの、好みのタイプ
だったんで声掛けてみたら「八神庵」の知り合いだっつーから連れてきてやったの
に。つれない態度とるんならオレがさらっていっちまおうかな」
「………」
2人の微妙な雰囲気に七枷が合いの手を入れてみるが効果なし。
しかし京が気に入った様子の七枷にとっては好都合で…。
「…ふ〜ん…イイわけね?じゃぁキョウは今夜俺と過ごすことに決定〜〜!!」
一人勝手にゴキゲンになっていた七枷が大きな声で宣言すると
「そんなのダメに決まってるでしょ!!今夜ここにいるのは何の為?!」
「そうだよ!今夜の出演もうすぐなんだから…ボク達ドタキャンできる身分じゃな
いってコト、わかってるよね。社?」
京の肩に手を回そうとした七枷に、仲間とおぼしき男女2人組がタックルをかけ
てその身を拘束してしまった。
「うおッ、おまえ等いつの間に来てたんだぁ?! わ、わかってるてば…アハ、ハ…」
一見敵なしに見えるこの大男でもこの2人には頭が上がらないらしい。ごまかし
笑いを交えて必死に宥めている。
そんな傍で無視を決め込んでグラスを口にしていた庵だったが、にわかに自分の
まわりが騒がしくなったコトに小さく舌打ちすると席を立ち、3人のやり取りに
気を取られてポカンとしている京の腕を引いて歩き出した。
「庵?」
「出るぞ」
そうして2人は従業員用の出入り口から、煉瓦造りの隣のビルとの間にある路地に出た。
庵は掴んでいた京の腕を離したが、今度は逆に京が庵の腕をギュッと握りしめる。
そんな京の様子に根負けして思わず苦笑した。
「わかった。逃げやせんからそんなに力いっぱい握り締めなくていい。…ずっと探
していてくれたのか」
「突然居なくなられたら心配するに決まってるだろ。なかなか帰ってこないし。あ、
でも寄り道もしてたからずっとってわけじゃないや」
「――京?」
庵は明るい口調とは裏腹にどこか元気のない京を引き寄せるように抱いてその理由を
問おうとしたが、それよりも先に京が庵の首に両腕を回しギュッと抱きついた。
「帰ろ。なんかおまえの顔見たらホッとしたみてー。ちょっと疲れた」
「ああ。だがその前に…おまえにあやまっておかんとな」
「ん?」
腕を解いて京が庵と視線を合わす。
「昨夜はおまえにひどいことをした。すまない」
「……悪いと思って?それで居なくなっちまったの?」
「――ああ。どうかしてた」
京は伏し目がちに言う庵の顔をじっと見つめた。
この男からこんな神妙な言葉がでるとは想像もしていなかった、というような思いで。
知らなかった一面をまたひとつ見つけて京は小さく笑む。
「そりゃぁ、びっくりもしたけど…オレ、嬉しかったりしたんだぜ。まだ伝わらないのな」
そう言って、京は庵の心臓のあたりを拳でコツンと軽く叩いた。
(鈍感め)
ビルの間からのぞく天を仰いで溜め息をつく。
でも恋した男の傍らにいられることはやはり幸せで。
――深まっていく夜の闇。
あれから外で簡単に食事をすませてすぐに帰ろうとした庵の手を、「やっぱり
少しぐらいはクリスマスの雰囲気を楽しんで帰ろう」と言ってきかない京が引
いて歩き出して。それに付き合いながら庵はポケットの中の所持金で、売れ残
りのシャンパンと小さなクリスマスケーキを買った。
ダウンライトがほのかなオレンジ色の光を放つ寝室はほどよく暖まっている。
庵は食器を洗った後そのままシャワーを浴びに行ったようでなかなか戻ってこない。
京はその間少し休もうと寝室のベッドに体を横たえた。
どのくらい時間がたっただろうか、音質のすこぶるよいオーディオから控え
めな音量でグレゴリオ聖歌が流れるのを夢見心地の中で聴いていた京の耳に
突然、聖歌とは違う声がさざ波のように遠く近く聞こえてきた。
―還ロウ。
―還ッテキナサイ。
―ソノママデハオマエノ身ハ滅ブ。
「……ゥ……」
京は咄嗟に押し寄せてきた思念に抗おうとしたが一瞬遅く、体が痺れてベッド
に横たわった
まま動けなくなる。思念が戒めとなってやんわりと、だが確実に
京を捕らえたのだ。
それでもやっとの思いで目を開けるとそこには思わぬ来訪者が立っていた。
開かれた窓から忍び込む冷気が京の肌を粟立たせてゆく。
「………!?」
「…ゲーニッツは好きにさせてやれといったがオレはそうもいかないね」
「………どう…し……て…ここ…」
「絶対連れて帰るからな」
「…ベ…ニ……マ…・ル」
目の前に立っていたのは自分と同じ<天使>でベニマルという名の友人だった。
いつも口元に優美な微笑を絶やさないこの友人が、今は怒気をはらんだ目で自分を見下ろしている。
「奴に惚れただなんて言うなよ、京。おまえは<魔>に魅入られただけなんだよ。
そして奴はおまえに疵を癒させて復讐の機会を狙ってる反逆神だ」
言い聞かせるように身を屈めて京に顔を近づけるベニマルの肩に金色の髪がサ
ラリと流れる。
「ち…が……う」
それだけ言うのが精一杯で京は歯噛みする。
そんな彼の表情をじっと見つめていたベニマルだが
「……時間のムダだな」
それ以上は何も言わず京を抱き上げた。
「や…だ……っ!」
「京っ。いい加減に目を覚ませ」
「……お…り………庵ィィ―ッ!!」
京がやっとの思いで「いおり」と叫び、すがるような目で寝室のドアの方を見る。
と、かすかな音をたててドアが開き庵が姿を現した。その落ち着きぶりからする
と京のただならぬ声を聞きつけて今駆けつけてきた…というのではないらしい。
「気配も消さずにしかもひとりで仇敵である俺の住処に乗り込んでくるとはいい度胸だ」
庵は不法侵入者に驚く様子もみせず、ただトレンチコート姿のベニマルを見据
えていた。
「だが部屋に土足で上がり込んだコトは見逃すとしても、だ。話もろくに聞かず
攫う行動でるとは、天使殿も意外にやることが横暴だな」
言葉にたっぷり皮肉を込めて庵は好戦的な態度にでる。
「……憎らしいぐらいに冷静じゃないか」
「そう見えるか?」
「……?……!!」
ベニマルが分からないというように首を傾げたと同時に庵が動き、京に向かって
腕を伸ばしたが、僅かの差でベニマルは京を抱いたまま窓の外へと退いてしまった。
庵は絶妙のバランスで手すりに立った彼になおも追いすがるが、背中の疵がひきつる
のか、かつての敏捷さを欠いてしまう。それゆえにまたもや空を掴むことになる。
ベニマルは自分が優位に立っていることを確信したのか、トンと手すりを蹴ってその体を
浮きあがらせたかと思うと背に白い翼を出現させ、舌打ちする庵に向かっ
てニヤリと笑った。
「まだ追う気かい?そこから先は片翼しかないあんたには無理だね」
「…………」
庵が手すりにギリリと爪をたてる。
「いおり…」
京がベニマルの腕の中から自由のきかない手を伸そうとしたが、ベニマルが翼を
広げて
羽ばたくごとに引き離されてゆく。どうすることも出来ずに京は気を失った。
そして庵は月の光に溶け込むように消えた天使の残像をいつまでも睨み続け
る他なかったのだった。
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